書物からの抜粋
主を食べることについてぴったりのメッセージがありますので、ご紹介いたします。
分量:63ページ
著者:ウイットネス・リー
出版社:日本福音書房(2001年)
聖書における食べることの路線
人に対する神の願いは、人が神を食べるということです。神は人を創造した後、人に何か行うように告げませんでした。むしろ、神は人によって受け入れられる食物の形で、人の前にご自身を置かれました。人が神を取り入れるために、神は食べることができる方です。神はわたしたちの中に入って、わたしたちの命となるだけでなく、わたしたちの継続的な命の供給ともなりたいのです。
食べることの路線は全聖書を通じて一貫しています。創世記の最初の二章から啓示録の最後の章まで、食べることが繰り返し述べられています。イスラエルの子たちがエジプトを去ろうとしていたとき、彼らは小羊を食べなければなりませんでした。彼らは神に対する礼拝で供え物をささげたとき、種々のささげ物を食べました。主イエスが来られた時、彼は命のパンであって、わたしたちは彼を食べ、彼を享受しなければならないと言われました。
わたしたちが主を食べ飲みすればするほど、主に対するわたしたちの礼拝はさらに実際となります。真の礼拝は、主がわたしたちをさらに満たし、彼に浸透していただくために、わたしたちの内なる存在を主に開くことです。
人の堕落と宗教の抵抗
人が主を食べる道を選択する前に、サタンが入ってきました。人はたいてい、人が堕落したのは罪のゆえであると言います。本当は、神以外のものを食べたために、人は堕落したのです。
主は勝利者を召して、堕落したキリスト教に勝利を得させる
啓示録は第二の召し、すなわち、勝利を得る召しを与えます。ここの勝利を得ることは、わたしたちの短気に勝利を得るとか、罪とこの世に勝利を得ることではなく、堕落したキリスト教に勝利を得ることです。主の召しは堕落したキリスト教の状況に向けられています。
啓示録第二章と第三章で、主は勝利者を七回召しておられますが、そのうち、食べることに三回言及しています。最初は、命の木を食べることに関して、二度目は,隠されたマナを食べることに関して、三度目は、祝宴にあずかることに関してです。これらは旧約の神の民による三種類の食事のようです。
人は食べることを卒業することはできません。毎日が食べることの繰り返しです。
聖書は食べることに関する本です。
確かに、人は食事した後、働きます。
すべての人が養われると、召会は生きてきます。
キリストを食べることによって満たされる時、わたしたちは活動的になります。
主の回復とは何ですか?食べることです!主の道とは何ですか?食べることです!勝利を得るとは何ですか?食べることです!霊的であるとは何ですか?食べることです!食べること!食べること!食べること!