最新情報をメールで受け取る

【読物】“思いを霊につける”とは

みことば

ローマ 8:6 肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

ヨハネ 6:63 命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である

書物の抜粋

質問1:わたしたちの思いを霊に付けようとすることは善を行なおうとすることの一例でしょうか?

答え:わたしの青年時代に、一つのことわざを聞きました。それは「罪を知ることは罪を犯すことであるというものです。アダムとエバとは善悪知識の木の実を食べる前、罪を知りませんでした。罪はありませんでした。その実を食べた後に、目が開け、彼らは善と悪とを知り始めました。善を行なおうとすることは罪です。同じように、わたしたちの思いを霊に付けようとすることは罪です。何かをしようとして努めてはいけません。ただあなたの思いを霊に付けなさい。パウロはわたしたちの思いを霊に付けるよう努めることを命じませんでした。彼はただ「霊に付けられた思いは命と平安である」と言っただけです(ローマ8:6後半)。思いを霊に付けることについてメッセージを聞いた後に、ある人は最善を尽くしてこれを行なおうと決心するかもしれません。わたしたちは、自分が行なうのをやめる必要があります。わたしたちが打ち勝とうと努める時はいつであれ、敗北します。信仰は行なうことや、努めることではありません。神が言われたことを単純に信じること、そして「アーメン」と言うことです。この信仰がわたしたちを、安息の中に保ちます。

質問2:「思いを霊に付ける」という実行上の例が何かありますか?

答え:思いを霊に付ける方法を定義することは一つの誘惑です。パウロは「あなたの思いを霊に付けなさい」と言って、わたしたちに命じませんでした。わたしたちはこれを行なおうと決心する必要はありません。信仰はわたしたちの活動を停止します。信仰は常に神を賛美します。聖書の中でヨシュアとカレブの例は、信じるとは何であるかをわたしたちに見せています。ヨシュアとカレブは、民数記第13章と第14章で勝利を得た人たちではありません。勝利を得たのは、彼らが信じたおかたでした。神があらゆることをされました。彼らは神がされることをただ享受しただけでした。ヨシュア第三章で彼らはヨルダン川を渡りました。しかし水をせき止めたのは神でした。彼らはただ渡ったのです。あなたの罪に打ち勝とうと努めてはいけません。単純に信じなさい。ハレルヤ!わたしたちはキリストの中にいるのです。キリストはわたしたちの偉大なる「わたしはある」です。そして彼は命の霊です。わたしたちは救い主を持っているのです。もしわたしたち自身が何かを行なうのでしたら、わたしたちは自分自身の救い主になろうとしているのです。わたしたちは彼を必要としないと宣言しているのです。もしわたしたちが、「自分のあわれむべき、望みのない、自分を救うのに何をすることもできない者である」ことを宣言するなら、それはわたしたちが救い主を必要としていることを宣言しているのです。

ディスカッション

読み物: 『命の経験と成長』メッセージ5「命の経験(三)」PP64-68

コメントを残す