要点のまとめ
- 聖別は「罪なき完全」ではない
- 聖別は、単に地位上の事柄だけではなく、性質上の事柄でもある。
- 「聖別」という言葉は、「区別」することに重点がある。
- 信者たちは聖別する命としてのキリストによって聖別される。
- 信者たちが神の言葉の中で聖別されつつある。
- 聖別とは、神以外のすべてのものから彼へと分離されることである。
- 最終的に、信者たちの聖別は、彼らが霊、魂、体において徹底的に聖別されるためである。
以下引用開始。
聖となること
聖である神と聖とされる民
レビ記第十九章二節で、神はイスラエル人に命じて言われました、「あなたがたは聖でなければならない.なぜなら、エホバ・あなたがたの神、わたしは聖だからである」。エペソ人への手紙第一章四節では、「この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び」と言っています。これらの節が言っていることは、神は彼の選ばれた民もまた聖別され、神、聖なる神を表現するということです。
旧約のレビ記第十九章二節において、神はモーセにイスラエルの全会衆に語るように命じられました、「あなたがたは聖でなければならない.なぜなら、エホバ・あなたがたの神、わたしは聖だからである」。新約のペテロの第一の手紙においてもこの箇所が引用されています、「『わたしが聖であるから、あなたがたも聖となるべきである』と書かれているからです」。新約においても、旧約においても神は聖であると言っています。また神の選ばれた民も聖でなければならないと要求しています。ヘブル人への手紙第十二章十四節も言っています、「聖別がなければ、だれも主を見ることはありません」。このように神は聖を重く見ておられます。聖別(聖とされる)とはいったいどう言う意味なのでしょうか。またわたしたちはどのようにして聖とされることができるのでしょうか? 以下で、わたしたちは聖書が啓示している「聖別」の意義を見、また神がいかに彼の救いの中で神の民を地位上において、また性質上において聖別し、この方、聖である神にふさわしいものとされるのかを見ます。
「聖別」の真理の回復と進展
聖別は定義するのがとても困難です。聖別は、聖書の旧約と新約いずれにも十分に啓示されています。しかしそれは後に、ほとんど失われてしまいました。聖別が何であるかを明らかにするために、わたしたちは少し歴史上でのそれぞれの宗派のクリスチャンがこの聖別をどのように見ているのかを理解する必要があります。
十六世紀の宗教改革の時に、神は彼のすべての真理の回復を始められました。神が回復された最初の真理は、「信仰による義認」でした。次に回復されたものは「聖別」でしたが、聖別は、義認ほどはっきりした方法で、また十分に正確には回復されませんでした。
十八世紀に、英国においける道徳の廃退により、聖職者の霊性は普遍的に低落しました。このとき、神はオックスフォードの大学生グループ、ジョン・ウエスレー、チャールズ・ウエスレー、ジョージ・ホワイトフィールドを用いられました。これらの青年たちはメソジスト運動を持ち始めました。彼らは「メソッド(methods)」と呼ばれるある規則を採用し、それを用いて自分を制御し、矯正し、振る舞いました。彼らはとても厳格に、これらの「メソッド」を使って自分を規制しました。彼らは「メソッド」を守って正しい生活をし、「罪なき完全」を追求しました。このような実行が聖別されることであると考えたからです。しかしこれは聖書が啓示している聖別ではありませんでした。
地位上の聖別
十九世紀の初期に、ジョン・ネルソン・ダービーの指導の下にブラザレンが興されました。ブラザレンは、聖別は「罪なき完全」ではないことを、聖書から示しました。彼らはマタイによる福音書第二三章十七節の「金と、金を聖める宮と、どちらが大いなるものか?」を用いて、市場の金には罪深いものは何もなくても、それが神にささげられ、神の聖なる宮に入れられるまで、聖くないことを指摘しました。彼らはマタイによる福音書第二三章十九節を用いて、祭壇が供え物を聖別することを示しました。彼らは、雄牛や小羊は囲いの中にいる時、罪がなく完全に良いとしても、それはやはり世俗的であり、祭壇で神にささげられるまでは聖くはなく、ささげられた時に聖別されたのであると論じました。
彼らはまた、テモテへの第一の手紙第四章四節から五節を例に取って言いました、「なぜなら、神が造られた物はすべて良いものであって、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはないからです.それは神の言と、とりなしを通して聖別されるのです」。食物は市場にある時、世俗的なものです。それに不正はなく、罪はないかもしれませんが、世俗的なものです。しかしながら、同じ食物が聖徒たちの食卓に置かれ、聖徒たちによって祈られると、それは聖徒たちの祈りによって聖別されます。これらすべての節を用いて彼らは、聖別は地位の変化を意味することを示しました。彼らは、聖別は絶対に地位の事柄であると言いました。例えば、金はまだ店にある時は世俗的なものですが、宮の中に置かれると聖くなります。その地位が変えられたのです。同じように、小羊がまだ囲いの中にいる時は、世俗的なものですが、祭壇の上に置かれると聖くなります。市場の食物も世俗的なものですが、聖徒たちの祈りによって聖別されます。ですから、これらすべての節の光によって、ブラザレンは、聖別は地位の変化を意味すると教えました。本来、わたしたちの地位はこの世的であり、全く神のためではありませんでした。わたしたちが神へと分離される時、わたしたちの地位は変わり、その結果、わたしたちは聖くなります。彼らは「罪なき完全」には聖書的な根拠がなく、人の聖別に対する天然的な観念であることを証明しました。
性質上の聖別
聖書から見て、ブラザレンの兄弟たちが見たこのことは正しいです。聖別には確かに地位上の事柄があり、罪なき完全は真の聖別ではないことを見ました。後に、主は中国において彼の回復を起され、ウオッチマン・ニー兄弟が新約を学び、聖別は、単に地位上の事柄だけではなく、性質上の事柄でもあることを発見しました。例えば、ローマ人への手紙第六章では聖別という言葉が二度使われています(十九、二二節)。十九節は言います、「聖別に至りなさい」。また二十二節は「聖別に至る実」と言っています。この二つの節の聖別(sanctification)は経験の意味を含んでいます。ただ地位上の変化だけでなく、性質上の変化でもあります。信者は、経験において聖別されます。それは神の神聖な性質がわたしたちの中に分け与えられることによって、神の聖をわたしたちの中に造り込むことです。このような聖別が性質上の聖別です。
聖なる神
ただ神だけが聖である
聖書において、この言葉「聖別」最初に述べられているのは、出エジプト記第三章のモーセの召しにおいてです。モーセは羊の群れを飼っていた時、荒野でしばが燃えているのを見ました。彼が脇道に入って、なぜそのしばが燃え尽きないのかを見ようとした時、神はそのしばの中から彼に語って、言われました、「ここに近づいてはいけない。あなたの足からサンダルを脱ぎなさい.あなたが立っている場所は、聖なる地だからである」(出三・五)。これは、神だけが聖であること、神がおられる所はどこでも、その場所は聖であることを示しています。神はその他の一切のものとは同じでなく、区別されています。
神のもの、神のためのものは何であれ聖である
後に神はモーセに、神が民の間に住むために、イスラエル人が神のために幕屋を建造すべきであることを告げました。幕屋の中には、至聖所と呼ばれる場所があり、神はそこに住まわれ、そこで語られ、統治され、そしてそこで人と会われます。その時から、聖別という言葉は出エジプト記、レビ記、民数記、申命記で何度も使われています。これらの書の中のどの事柄も幕屋と祭司の体系と関係があります。どの件も神が旧約の中で設立された事柄と関係があり、すべて聖なるものです。これから見ることができるように、聖書の中で神に、また神また神に関する事物にまた言及しているものはすべて聖なるものです。
「聖別」という言葉は、旧約のヘブル語あるいは新約のギリシャ語はどちらも「区別」することに重点があります。レビ記第十章十節では、「聖なるものと俗なるもの……を区別するためであり」と言っています。これは、「聖」の向こう側が「罪」ではなく、「俗」であるということを言っています。ですから、聖別の意味とは、普通のこと、俗なことから区別されるということです。俗なものとは、俗で普通なものであり、間違ったもの、あるいは悪いものとは限りません。ある人は、大変規律があり、品行方正で、人から何の指摘されることがないように見えるかもしれませんが、俗なこと、普通なものから神へと区別され聖とされていないならば、やはりその人は俗なものなのです。
聖別もまた神の性質の状況を指しています。それは単に罪がなく、邪悪でないということではなく、他のものと異なっていて、俗なものとは区別があるということです。聖別は悪い状況の中から区別されただけでなく、神に属さないすべてものものから、神のためでない事物から区別されているということです。そして神の聖なる性質にふさわしく、また神と一であるということです。なぜなら神だけが聖だからです。
聖別された民
エペソ人への手紙第一章四節は、「御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び」と言っています。これは、この聖なる神の彼の民に対する意図は、地位上の変化だけではなく、俗で、この世的な地位から神のための地位へと区別されるということです。それには、性質上の造り変えが必要であり、彼らの天然の性質が神に属する性質へと造り変えられ、最終的には神と完全に一となることです。地位上の聖別は、わたしたちが主を信じた時にすぐに得ることのできる事実です。しかし性質上の聖別は、長い過程があるものであり、わたしたちの再生から始まって、わたしたちの一生を通して、命において円熟したときにはじめて到達し完成することのできるものです。以下に、わたしたちは聖なる神がどのようにして、信者を性質において聖別されるのかを見ます。
聖別する力としての聖霊の中で
コリント人への第一の手紙第六章十一節は、わたしたちは神の霊の中で聖別されていると言っています。これは、聖別する力としての聖霊の中でわたしたちが聖別されるということを示してします。テサロニケ人への第二の手紙第二章十三節は言います、「神が初めからあなたがたを選ばれたのは、その霊の聖別……によって、救いへと至らせるためであるからです」。神がわたしたちを選ばれたのは、その霊の聖別によって救いへ至るためです。わたしたちが聖別によってという意味は、わたしたちが聖別される過程の中にいることを意味しています。ローマ人への手紙第十五章十六節は、信者たちが「聖霊の中で聖別され」ることについて語っています。これは主観的な性質上の聖別です。日ごとに、聖霊はわたしたちの内側で継続的に働き、神の定められたみこころのためにわたしたちを聖別し、神へと分離します。
聖別する命としてのキリストによって
信者たちは聖別する命としてのキリストによって聖別されます。コリント人への第一の手紙第一章三〇節は、キリストが神からわたしたちに至る聖別となられたことを啓示しています。これは、わたしたちの内側の聖別する命がキリストであることを示しています。彼はわたしたちの中で生きており、永遠の命によって継続的にわたしたちを聖別しています。キリストが聖別する命であることによって、わたしたちは魂において徐々に聖別されつつあります。すなわち、思い、感情、意志において徐々に造り変えられつつあります。
神の言葉(真理)の中で、父なる神の聖の実際を伝えることを通して
ヨハネによる福音書第十七章十七節の主イエスの御父への祈りにおいて、彼は言いました、「彼らを真理の中で聖別してください。あなたの言は真理です」。十九節で、主は続けられました、「わたしは彼らのために、自分自身を聖別します。それは、彼らも真理の中で聖別されるためです」。これらの節は、信者たちが神の言葉の中で聖別されつつあることを示しています。この言葉は、父なる神の聖の実際を伝える真理です。御父の言葉は、それと共に御父の実際を伝えます。ですから、彼の言葉は真理として、実際として信者たちの中で働き、どのようなこの世的なものからも、彼らを聖別し、分離します。彼の言葉は地位上だけではなく、性質上においても働き、信者たちをこの世とその強奪から、神と彼の目的へと分離します。これが神の言葉の中で聖別されることです。このような聖別は、わたしたちの地位を変えるだけではなく、わたしたちの性質、すなわち、わたしたちが内側の存在(何であるか)も変えます。
御父の取り扱いにより、神の聖にあずかることを通して
ヘブル人への手紙第十二章十節は、父なる神が、「益のために、わたしたちが彼の聖にあずかるようにと取り扱われる」と言っています。これは、御父の取り扱いを通して信者たちが聖別されるのは、わたしたちが彼の聖、すなわち、彼の聖なる性質の属性にあずかるためであることを示しています。御父の聖にあずかることは、彼の聖なる性質の属性にあずかることです。わたしたちが御父の聖なる性質にあずかるために、彼がわたしたちを取り扱うことは、造り変えの働きと関係があります(Ⅱコリント三・十八)。これは、内側の神聖な分与と環境における外側の取り扱いによる結果を指しています。
信者が聖を追い求めることを通して
新約には、聖を追い求めることに関するいくつかの箇所があります。ヘブル人への手紙第十二章十四節は言います、「すべての人との平和と、聖別を追い求めなさい。聖別がなければ、だれも主を見ることはありません」。正常なクリスチャン生活は、平和と聖別との均衡が取れているべきです。神に関する限り、聖は彼の聖なる性質の属性です。わたしたちにとって、聖はわたしたちの聖別、すなわち、わたしたちが神へと分離されることです。ここで暗示されていることは、わたしたちがすべての人との平和を追い求めている間も、神の御前で聖別の事柄に注意を払わなければならないということです。わたしたちがすべての人との平和を追い求めることは、神の御前での聖別、すなわち、わたしたちが神へと分離されることによって均衡が取られなければなりません。そうでなければ、だれも主を見て、彼との交わりを持つことはないでしょう。
ペテロの第一の手紙第一章十五節は言います、「あなたがたを召してくださった聖なる方にしたがい、あなたがた自身もすべての生活様式において聖となりなさい」。聖なる方は三一の神、すなわち、選ぶ御父、贖う御子、聖別するその霊です(一―二節)。御父は選ばれた民としてのわたしたちを再生し、彼の聖なる性質をわたしたちの中へと分け与えました(三節)。御子は、彼の血をもって、わたしたちをむなしい生活様式から贖いました(十八―十九節)。その霊は御父の聖なる性質にしたがってわたしたちを聖別し、神以外のあらゆるものからわたしたちを分離します。それは、わたしたちが御父の聖なる性質によって、神ご自身が聖であるように、すべての生活様式において聖となるためです。わたしたちは、その霊の聖別を通して、すべての生活様式において聖となります。この再生は、わたしたちに神の聖なる性質をもたらし、また聖なる生活を生み出すものです。
ペテロの第二の手紙第三章十一節は言います、「これらすべての物が、このように崩壊していくのであれば、あなたがたはどのような人となって、聖なる生活態度と敬虔を持ち」。地であろうと、天であろうと、すべての物はキリストの血によって、またキリストを通して神に和解させられ、天的な事柄でさえもキリストの血によってきよめられたのですが(コロサイ一・二〇、ヘブル九・二三)、それらは依然として、神の統治上の対処において燃焼させられることによって、一掃される必要があります。それは、それらが神の新しい宇宙の中で性質と現れにおいて新しくなるためです(Ⅱペテロ三・十三)。性質上であれ外側のことであれ、すべてが新しくされます。ですから、神に聖別された神の子どもたちであるわたしたちには、持つべき聖なる生活と敬虔があります。すなわち、それは造り変えられ、神の聖なる性質と敬虔の生活によって神を表現し、わたしたちが神の聖なる行政にふさわしいものに資格付けられるということです。
信者が聖別を完成することを通して
信者たちは、彼らが聖別を完成することを通して聖別されます。コリント人への第二の手紙第七章一節においてパウロは言います、「愛する者たちよ、わたしたちはこれらの約束を持っているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れて、聖別を完成しようではありませんか」。聖別とは、神以外のすべてのものから、彼へと分離されることです。聖別を完成するとは、この分離を完全にして、完成することであり、わたしたちの全存在、すなわち、霊、魂、体を神へと完全に全く分離し、聖別します(Ⅰテサロニケ五・二三)。エペソ人への手紙第一章四節によれば、彼がわたしたちを選ばれ聖い者とする方法は、聖なる方であるご自身をわたしたちの存在の中へと分け与えることによってであり、それはわたしたちの全存在が、彼の聖なる性質で浸透され、飽和されるためです。
信者の霊、魂、体が徹底的に聖別される
最終的に、信者たちの聖別は、彼らが霊、魂、体において徹底的に聖別されるためです。テサロニケ人への第一の手紙第五章二三節は言います、「平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださいますように」。「聖別し」は、「俗的で、俗悪なものから神へと分けられ、分離されること」を意味します。「徹底的に」は、「全体的に、徹底的に、極みまで」を意味します。神がわたしたちを徹底的に聖別するのは、わたしたちの存在のどの部分も、すなわち、霊、魂、体のどの部分も俗的で、俗悪なままにされないためです。
神がわたしたちを聖別するのは、第一に、再生を通してわたしたちの霊を所有することによります(ヨハネ三・五―六)。第二に、命を与える霊としての彼ご自身をわたしたちの霊から魂の中へと拡大し、魂に浸透して造り変えることによります(ローマ十二・二、Ⅱコリント三・十八)。第三に、魂を通してわたしたちの死ぬべき体を生かし(ローマ八・十一、十三)、彼の命の力によってわたしたちの体を変貌させることによります(ピリピ三・二一)。究極的に、わたしたちは神であるのと同じように聖となり、新エルサレムであるのと同じように聖となります。
参考の読み物
『ヘブル人への手紙ライフススタディ』第十一編
『エペソ人への手紙ライフスタディ』第三編
『真理課程第三段階三巻』第四一課
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出典
日本福音書房出版の『ミニストリー・ダイジェスト 第三期第二巻』 の「真理」の①より、許可を得て抜粋を掲載させていただいております。ここにて感謝を申し上げます。
『ミニストリーダイジェスト』について
日本福音書房から出版されている著作より編集されたもので、下記の項目に関連したメッセージとなっています。
- 真理
- 命
- 奉仕
- 福音
- 詩歌
聖書が初めての方及び初信者から長年のクリスチャンまで、幅広く対応しています。個人での追求や、一対一の牧養、家庭集会での追求、奉仕のや主日の集会に至るまで用いることができます。豊かな務めの言葉の共有によって、教会生活の内容が更に充実したものとなりますように。
テーマとしては、日々の霊的養いのため、毎朝読むものとして推奨されています『朝ごとの復興』のテーマに即しています。難しい真理も非常に噛み砕いた説明になっているので、クリスチャンとして深く学びたい方には、『朝ごとの復興』と合わせて定期購読を強くお勧めします。『ミニストリーダイジェスト』は一冊800円(税抜き)です。約160ページと十分な分量があります。『朝ごとの復興』は一冊700円(税抜き)です。
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